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慶安宮の略史

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慶安宮」は又「鶏籠媽祖宮」とも呼ばれ、基隆市三大宮廟の一つに数えられ、八景の一でもあります。「慶安朝聖」の意味をもっており、平安の慶びを聖母媽祖様にお祈り、お祝い申し上げます。

本宮廟の所在地は基隆市の商業中心地帶であり、最も繁華な忠二路一号に、設置奉安してゐます。

本宮廟に供奉しているす天上聖母媽祖様は、神の事蹟が明らかで、名声が盛大であるばかりでなく、神の御高德は、はてしがなく國を富裕にし、庶民を守護されるので、媽祖様をたふとび、あがめる信者はとても多く、台湾の内外各地に、遍く広がっております。

天上聖母は一般に「媽祖」様と呼ばれ、原名を林默と名付け、西暦紀元九六〇年から九八七年迄、宋朝時代、福建省莆田縣の湄洲島に生れ、一生を救災、救難と、世の中の災害を除き、人民を安堵ならしめ、死後は又媽祖の神様として、再三、航海の安全を保護し、庶民達をたすけて来ました故、曾て歴代の皇帝の敕封に依り、其地位は崇高尊厳にして他に比べる者なく、後世の人が海の女神様として崇め奉っております。

聖母(媽祖)様を本市に迎えて供奉した年代は今からさかのぼって二百四十七年前、清朝時代の乾隆四十五年(西暦紀元一七八〇年)になります。

当時、基隆の市街が未だ開拓されなかった時、漳州から移住民が牛稠港と哨船頭、二個所の海辺地帶に、小屋を建て、家を並べて、だんだんと集結して部落をつくった頃、沿海の漁民達が航海の安全、漁業の順調と發展をお祈りする為、牛稠港の虎仔山の麓に、はじめて一間の小さな廟を建て、天上聖母媽祖様を供奉しましたのが最初に出来た媽祖宮廟で御座います。

其後、漳州の移住民が頻繁に、崁仔頂一帯の高地に移り、居所を構えて、次第に人家の多い町を作り、其上、商業がますます繁昌し、賑わい栄えて来た清朝時代の嘉慶二十年(西暦紀元一八一五年)、地方の紳士達が發起して、資金を募集調達し、「媽祖宮廟」の移転計画をされ、それに内湖の信者何士蘭が一部分の敷地を寄進し、遂に新しい宮廟の建設を完成し、従前の媽祖宮廟を現在の場所に移転された上で、「慶安宮」と正式に名づけたのが、今から二百十二年前の事で御座います。

其後慶安宮は長い年月を経て古くなり、其上地震や戦争の災害を受けたので、此間前後数回にわたって修繕や、改築が行われ、漸く典型的な宮廟となりましたが、民國八十六年(西暦紀元一九九七年)に至って、参拝者が激増した為、偏殿が狭くて窮屈となり、それに中殿も簡単粗造で低く、金亭も破損して使えなくなり、牌楼も風雨にさらされて損害を受け、外観も悪いので、第五屆慶安宮管理委員會主任委員童永と管理、監察委員達が共議決定の上、擴大建築及び改築と重建等の大建築を施工され、二年間を経て、民國八十八年(西暦紀元一九九九年)に始めて完成したので内面的にも、外観的にも、新しく立派に変り、現今の様な大変すばらしい宮廟となりました。

民國八十八年李登輝總統より直筆の「基隆媽」の横額を賜わられ、相次いで連戰副總統直筆の「福澤廣被」の横額や、蕭萬長行政院長直筆の「四海平安」の横額が贈られ、更に民國八十九年新任の陳水扁總統も本宮廟の新築のやぐら門のため、御筆で慶安宮の文字を書き記され、其後も又直筆「傳燈風世」の横額を賜わられましたので、本宮の崇高な地位がますます廣く知られるようになりましたのは、殊に光榮の至りで御座います。

本宮廟は正殿に主神の天上聖母(媽祖)様と千里眼及び順風耳両將軍を供奉している以外、正殿の両側に附属してる神殿には、玉皇上帝、觀音佛祖、關聖帝君、文昌帝君、註生娘娘、地蔵王、福徳正神、斗姥元君、孔子、太上老君、倉頡夫子、天官財神、季倫財神、玄壇財神、比干財神、萬山財神等の諸神が奉祀されております。更に民國九十三年四月に於て、本宮の主任委員童永はわざわざ市議員張芳麗と共に一百十四名の進香団員を引きつれて、福建泉州に渡り、天后宮に參拝し、三百五十九年の歴史をほこる泉州媽祖を慶安宮にお迎えした。

又民國九十四年四月十三日(西暦二〇〇五年四月十三日)本慶安宮主任委員童永が總団長に再び基隆市議會副議長曾水源を名譽団長と市議員張芳麗を団長に副主任委員倪再福、黄建智並びに委員、顧問、信者計壹佰數十名が福建省に渡り漳州齊天宮を參拝し嘉靖三十二年今から四百七十年前の漳州媽祖様を恭迎し本慶安宮古來の媽祖様と一緒に本宮に恭奉し基隆市の繁榮と庶民の平安をお守り下さっております。本慶安宮は專ら媽祖様の慈悲精神を廣く世の中に行き渡り広める為、社會奉仕に全力を盡くし公益事業に協力援助し貧民の救濟、緊急の援助、文化の建設、慈善事業の工作に委員達が手を握り合って勵め、貧乏學生の獎學金に力を盡くし一生懸命に熱心におしすすめて來ましたので毎年政府慈善團体から表彰を受けております。

總統府資政 永久榮譽主任委員
童永 謹識